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物書き玖美のありゃりゃな生活

もの書き・編集者・校正者の、本と言葉と日常。ペンネームは亡き祖母の名前。

居を構えることは権利ばかりではない (2016.05.06)
上の記事の「保育園開設反対運動→中止」に関して思い出したことがある。
今の家を決めるときのこと。
今の家は大学のグラウンドが目の前にあり、大学敷地内にはグラウンド沿いに桜並木が広がっている。
もちろんそんな環境に住んだことのない我々(ツレに至っては一戸建て自体初体験)、もし越してきたらお隣さんになるお宅に聞き込みをしてみた。
お隣さんが居を構えたのは、我々のところより10年ぐらい先行して開発された宅地。
「桜がねえ……(くーっ)」※( )内はイメージです
というお隣さんの台詞が結局決め手となって、我々も住むことにしたのだが、お隣さんはこんなことも言っていた。
「私が越してきたときはグラウンドもまだ土でね。土埃がひどくて洗濯物が干せないってんで、ここら辺の住民が苦情を言ったわけ。そしたら芝にしてくれてね。今は大丈夫ですよ」
それを聞いた時ほんのちょっと「あれっ?」と感じたことの内容が、今なら分かる。
「後から来た者」である住民が、「元々いた者」である大学に対して苦情を言ったということへのちょっとした驚き。
そして苦情を聞き入れて芝を貼った大学側への、すごいな、という素朴な感情。
もし大学側が「後から来たのはそっちだ、分かってて越してきたんだから我慢しろ」という態度だったら?
また、実際に住んでみて分かったのだが花の季節には桜を室内からでも楽しめる反面、散りしおれ落ちた花やガク、秋には落ち葉が家の周囲に降り積もり、掃除が結構負担になる。
それに関して住民が「大学の敷地にある桜なんだから大学の廃棄物だ、大学側で掃除しろ」と主張したら?
「分かってて越してきたんだから我慢しろ」
「大学側で掃除しろ」
世知辛い、などの感情は別にして、どっちもまあ、何となく一理あるように思う。
そうなったら大変住みにくい雰囲気だろうとは思うが。
「居を構える」(大学は正確には「居」ではないが)ということは 未来永劫周辺環境が変わらないことを保証するものではない。
ウチの前だって大学が移転したりしたら何になるか分からない。
「緑豊かな住宅街」が売りだったはずなのに、飲み屋街になるかもしれない(いや個人的には歓迎するけど)。
その時に「緑豊かな住宅街っていうから家を買ったんだ、大学は移転するな」という権利は誰にもない。
後から来た者のために数十年(たぶん)続いた土のグラウンドを芝にすること。
数日間目を楽しませてくれた「ひとんち」の桜のために他の季節にせっせと掃除すること。
どちらもそこに居を構えた者として、「周辺環境の変化を受け入れて共存する道を選ぶ」という責任を果たしているのではないか。
もちろん受け入れるにも限度があるし、人によって限度も違うだろうから一概にはいえないけど、「どんなに権利のある人でも『環境は変わる』ということは止められない」というのはあるんじゃないかな。
市川市も、これが保育園じゃなくてパチンコ屋だったらどうなのかな、時間のあるリタイア組がはまって年金貢ぎそうだな、なら保育園の方がまだ健康的なんじゃ……なんて個人的には思うけどな!
| 脳内無法地帯 | 14:46 | comments(0) | trackbacks(0)
「ママ」を考える (2016.01.29)
某所でちょっと考えさせられることがあったので、久々の投稿。
Twitterできのうさんざん書いたけど。

この記事もそうだけどさ、
<3歳児虐待死>「ママ苦しい」…119番暴行の翌々日未明

こういう事件が起こったとき、なぜ「犯人」以上に「母親」を責めるの?
某所のコメントで
曰く、「母親は何してた」、
曰く、「そんなに男が欲しかったのか」
曰く、「こんな母親離婚して当然、元夫がかわいそう」
曰く、「母親なら死んでも子どもを守るべき」

あまりにひどいんで、「もし、DVで普通の状態じゃなかったらなかなか守ったりできませんよねー」みたいなことを書いたら
「普通は守るだろ!」(だから普通じゃないんだってば!)
「じゃあこの母親は悪くないのか!」(そんなこと言ってない)
「こんな男を選んだ時点で母親死刑」(ひどい男だってのは認めるけど、じゃああなたは男選びに絶対失敗しないの?)
まるで私が犯人のような叩かれよう。

なんでこんなに感情的に母親を責めるの?
一番悪いのはどう考えても犯人の男じゃないの?

で、つれづれ考えて、3つの要素が見えてきた。

 嵎貎董廚箸いΔ發里凌誓参
▲泪好灰澆函△修両霾鵑悗寮簑佚信頼
自分が良い母親であることを証明するためのスケープゴート

,砲弔い凸簑蟷襪垢觚誓發蓮∈廼瓩舛蕕曚虧椶砲垢襪茲Δ砲覆辰討た。
「母親になる」っていうことは、「生物として子どもを産む」だけの条件でなされるはずなのに
「強くなきゃ、母親なんだから」
「優しくなきゃ、母親なんだから」
「自分を全て犠牲にしてでも子どもを守らなきゃ、母親なんだから」
「食事もおやつも手作りじゃなきゃ、母親なんだから」
と、オイオイそんなのが「母親の条件」なのかよ、ってことまで要求される。
主にその母親の子どもに対して責任のない人から。
Twitterでやりとりした同業のママは、おばあさまから「母親は風邪ひいちゃいけない。寝てもいけない。」とよく言われたそうだ。
母親になったら、人間やめなきゃなのか? まさに神なのか? 神聖化って文字通りの意味なのか?
そんなん要求されてたら、「母親」のなり手なんていなくなるよね。人間やめなきゃなんだから。
少子化って案外、こういうところからきてるんじゃないか。


△亡悗靴討蓮∋篌身苦い経験がある。
「大阪二児遺棄致死事件」において、2010年にこのブログで「
家に帰ると待っている子どもという『現実』から逃れるためだったとしか思えない」と書いたが、
その後、くだんの事件を追ったルポルタージュを見て(ホントにざっとしか読んでないので、「読んだ」とはとても言えない)、
被害者面してた元夫(二児の父)と元義母(二児の祖母)が
「母親と子どものためにならないから」と養育費も払わず、結果として母子の生活を困窮に追いやったこと、
また母親自身育った家庭が厳格すぎ、解離性障害(健忘)を起こしていたこと、を知った。
当時ブログに書いた「寂しければなんでも許されるわけではない」という考えは変わらないが、
マスコミでは取り上げられなかった、上記のような状況を知っていたら、少しとらえ方が違ったかもしれない。
一面にすぎない報道で判断してしまった、そのことを非常に反省した。
ルポルタージュを読んでいない大多数の人は、おそらくとらえ方を変える機会もないだろう。

マスコミは恣意的だ。
例えば私は普段家で仕事をしている。ご飯はあまりにも忙しいときや、体調が悪いときにはお弁当を買ったり出前で済ますときもある。
で、(考えたくはないが)お弁当を買った日にうちの子に何かあったら。
「母親は家にいましたが、夕飯はスーパーのお弁当でした」と報道されても何ら不思議はない。
その報道がどういう反響を及ぼすかも想像に難くない。
「その」シナリオに沿った証拠集めを、さらにマスコミがするかもしれない。
そして、普段私が作っている献立は一切報道しないだろう。

報道にはシナリオが存在することを、多くの人はおそらく意識していない。


が実は一番問題なんじゃないかと思っている。,箸盍悗錣觧柄なのだが。
3歳児事件の母親へのバッシングを見て、「あまりに感情的にすぎる」と違和感を覚えた。
子どもへの追悼より、男への憤りより、母親バッシングが優先されているように思えた。
「ひょっとしたらこの人たちは、自分の母親としての地位を守るためにバッシングしてるのではないか?」と思うと納得がいった。
「(自分より)悪い母親を感情的に叩く私は、(少なくともこの事件の母親よりは絶対に)優しい、良い母親である」
ということを、証明してみせようとしてるのではないか? そのために(意識しているかどうかはわからないが)冷静な分析を避けているのではないか?
冷静より感情的な方が、優しいはずだから、と。
だから「こういう可能性もありますよね?」と「冷静に」別の見方を提示した私にもバッシングが向かった。
冷静さは、「優しい良い母親」には必要ないものだから。実際はそんなことないと思うけどね。

,抜悗錣觧柄、と言ったのは、「母親の神聖化」があるがために、子育てが「理想の母親にどれだけ近いかを競うもの」になっているように思えたからだ。
本来、子育てに優劣ってないのではないかと思ってる。点数化され優劣が競えるものであるためには、物差しが一つであることが必要だが、
忘れてないか? 「相手」は子どもだ。物差し何それウマイの? そんなことより木から飛び降りようぜ! きっと楽しいよ! って生き物だ。
物差しが一つだったら、そこから外れるような「変人」の子どもは育てなくていいことになってしまう。そうじゃないよね。変人たちも立派に(と言うと変だが)育ってるよね。

本来優劣を付けられないものなのに、「理想の母親」との距離によって格付けされ、「あなたは私より母親として劣ってる」と言っていい(ことになぜかなってる)母親をこれでもかと貶める。
そうすれば優越感を保てるから。

鶏の群れにストレスを与えると、という話は有名だと思う。
群れの中で一番強いものが、二番目以下の鶏をつつく。二番目は三番目以下の鶏をつつき……となっていって、一番弱い鶏はというと、自分の卵をつつくのだ。
虐待件数が増加の一途、というのは通報体制が整ってきたことや、今まで家の中の問題とされ隠蔽されてきたことが社会の問題となってきたこともあるだろうが、
「母親の序列化」もそれに一枚加わってるんじゃないかと思ってる。

ユニセフにわずかながら募金していると、「手作りじゃなかろうがなんだろうが、食事があれば生きられたかもしれない」という子どもがそれこそ毎日何万人といることを知る。
日本のママたちよ、狭い日本の中での序列化にムキにならないで、子どもが育ってることをすごいと思おうよ。



 
| 脳内無法地帯 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0)
人と比べることについて (2010.11.11)
またもご無沙汰しております。
家族に不幸があったり、ちょっといろいろややこしいことがあったりで、まあ大変。
私の人生を神様がネタにする日々は、まだちょっと続きそうです。




気になった記事があったので、紹介。

「マニュアルだけでは女も男も救われない」http://www.nikkeibp.co.jp/ecomom/report/report_242.html

>「頭が良くてキャリアがあっておしゃれでキレイ」が当たり前に


このサブタイトルで思い出したのが、小学校時代の同級生Sくん。
私のリアルでの初恋相手。ホントの初恋はガンダムのシャアだけど(笑)。

Sくんはスポーツ万能、ユーモアがあって頭もよくて、その上イケメンだった。

小学校の時、S君のことがホントにうらやましかった。
勉強もスポーツもできてその上イケメンなんて、ずるくね? と思っていた。

私も、言うたらなんだが、勉強はそれなりにできた。
でもとにかくスポーツができなかった。
体育はお情けで「ふつう」。たまに「もうすこし」。
小学校の6年間、徒競走タイムの遅い方から組分けをして、その中でもビリ。
「ザ・ビリ・オブ・ビリ」のチャンピオンの座を、6年間守ったのである。

上のmixiで言う「一芸に秀でた(でもどこか欠けた)人」の筆頭が私だったとすると(小学校という狭い世界ではあるが)、
Sくんは「天が二物も三物も与えるような一人勝ち状態の人」だった。


でもねー、「比べながら自分を確認していく存在」であったのは、せいぜい学生時代までだよ。
S君のことも、同じ高校になって再会したときにはべつにうらやましくなかった。
「彼は彼、私は私、別のところで生きていくことになるんだろうから」って思えた。
その代わりと言ってはなんだが、高校時代は「マルチな才能」、大学時代は「親の財産の有無」に猛烈に嫉妬した。

絵が描けて文章もうまくて英語もスッと覚えられた、高校時代の同級生。
親から「バイトはするな」といわれ、毎年60万のお小遣いをもらってそれをやりくりしては毎年海外旅行に行ってた、大学時代の同級生。
(ちなみに私は育英会奨学金と大学の奨学金を両方もらって、もちろんバイトもしている貧乏学生だった)
そんな人たちがうらやましくってしょうがなかった。

働き出して「あれ?」と思ったのは、そんな嫉妬がホントに突然、なくなったこと。
「社会ってもっと厳しいところだと思ってたのに、意外に私仕事できるじゃん」と、自信をつけたせいかもしれないし、
嫉妬するヒマもないくらい忙しく働いていたせいかもしれないし、
年齢もバックボーンも違う人々の中で、ああ価値観っていろいろなんだと
遅まきながら気づいたせいかもしれない。

ともかく、「人と比べて嫉妬する」ことがなくなったのだ。
見事なまでに。

そうしたら、人と比べて生きていくこと、それを続けることがどんなに疲れることか、見えてきた。

「少数派」だから何? 「合格点に達しない」ほほー。んで、その点数は誰がつけたワケ?
そんな反論もできるようになった。屁理屈? いいのだ自分が楽ならば。
向上心は、自分の物差しができたとき、それに沿った「上」を目指すことで、十分発揮できる。


比べる対象の問題もある。

アフリカで民族衣装を着て、顔に染料塗っているお母さんを見て
「お母さんだけどきれいでオシャレ、ああならなくては」とは思わないだろうけど
アフリカのお母さんたちから見たら「ウバディルガさん(仮名)みたいになりたい!」という憧れの存在かもしれない。

宇宙人が何人いるのか、あるいはいないのか、知らないけれど
「地球人は酸素を吸うの!? あんな臭いもの吸うなんて、信じられない! ダッセー! ふつーキセノンっしょ!」とか思っているかもしれないし
「母星があるとはうらやましい。我々の星、アルファ・ゲンドミーナ星(仮名)は遥か1万年前に消滅し、我々は宇宙をあてもなく漂うのみ……」と
うらやましがられるかもしれない。


60億人(だっけ?)いる地球人類の、アジアの中でも日本という狭い国の中の、男女で言えば女の、成人年齢に達した、子どもがいる、そして生活していける……と絞り込んだ、狭い狭い世界の中での嫉妬は、せこい。


就職する。そんなふうにほんのちょっと世界が広がるだけのことで、
そしてほんのちょっと想像力を働かせるだけで、背負い込まなくてもいい
嫉妬というものからこんなに解放される。

勝ったり負けたりはスポーツに任せよう。

| 脳内無法地帯 | 18:32 | comments(0) | trackbacks(0)
寂しさは言い訳にならない (2010.08.02)
されど引っ越し。とにかく引っ越し。ホントに引っ越し。
そんな感じでめっぽう忙しいのだけど、どうしても気になることがあったので、書く。

大阪の幼児遺棄事件について、2人の方が書いていたことに関して。

作家、内藤みかさんのブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/micanaitoh/diary/201008010000/

作家・TVディレクター・映画監督、山田あかねさんのブログ
http://yaplog.jp/akane-y-dairy/archive/2162

内藤みかさんはご自身もシングルマザーでホストクラブにも行っていたという経験から、
山田あかねさんは若いシングルマザーを支援する環境がないという視点から、それぞれお書きになっていて
それぞれ、だいたいのところにおいては同感なのだけれども
それでも、お2人のブログ記事を読んで、私は違和感を禁じ得なかった。


断っておくけど、私は決して母性神話の信奉者ではない。
「母親は24時間365日母親であるべし」とか「子どものためなら自分の楽しみは犠牲にして当然」とか
そんなことはこれっぽっちも思っていない。
むしろ、そんなに自己を犠牲にして(そしてそのことに自己陶酔して)子どもを育てて、
子どもに恩着せがましくならない母親なんてごく少数だと思うし、
恩着せがましくするぐらいなら、母親自身の楽しみを追求した方が子どもにとっても良いと思う。
だから容疑者に対して「母親なのにホスト遊びをするなんて」と眉をひそめるわけじゃない。
(ちなみに私は、ホステスさんなど接客業の人に気を遣ってしまうので
ホスト遊びも「何で高い金を払って気をつかわにゃならんのだ」という理由で、やらない)
母親が風俗店従業員だったというのも、2人の子どもを1人で育てるのだから
とにかく稼ぐ必要があったわけで、せっかくの若さを生かして高給を得たいと考えるのは当然だと思う。


そうじゃなくて、私の違和感の原因は

1.母親のホスト遊びが「育児の合間の息抜き」の域を超えていたことをわかっているかどうか
2.「加害者」である母親の心情に寄り添っているのに、「被害者」である子どもの心情には触れていないこと
3.寂しさのせいにして良いのか

この3点。


1.について、内藤みかさんは「自分は月に1回、子どもをベビーシッターに預けてホスト遊びをしていた」という
ことに触れ、「シングルマザーには強烈な寂しさを抱える人が多いから、寂しさを埋めるためにホスト遊びをしても責められない」というようなことを書いていた。
それはそれで正しいと思う。

が、内藤みかさん自身、ホスト遊びをしていたのは「月に1回」、しかも「子どもはベビーシッターに預けて」だったと書いている。
その頻度や、子どもの安全を確保していたことからも、内藤さんのホスト遊びは仕事や子育ての合間の「息抜き」の範囲内と言えると思う。

かたや、大阪の母親はどうだったろう。
2〜3日の外泊、そして6月下旬からは全く家に帰らず子どもは置き去り。
これが内藤さんのケースと同じだと言えるだろうか。

私には、家に帰ると待っている子どもという「現実」から逃れるためだったとしか思えない。
私も現実逃避は得意中の得意で、今だって引っ越し準備という「現実」から逃れてこうして書いているわけだが
それでも常に内側で声がする。
「逃げても現実は消えてくれるわけではない」と。
そして結局荷物の山に向かうことになる。

大阪の母親は「臭いものに蓋をする」とばかりに現実から逃げ続けた。
その結果、2つの幼い命が失われた。


ここで違和感の原因2.に移るが、内藤さん・山田さんのお2人とも
「母親の大変さ、寂しさ」には触れているのだけれど
残されて母親を待ち続けた子どもたちの「苦しさ、寂しさ」には触れていないのが、どうしても気になる。

母親は大人で、金もある。行動もできる。
ホスト遊びで気を紛らわせることも、コンビニで弁当を買うこともできる。外泊もできる。

けれど3歳の長女と1歳の長男には上記のどれもできない。
母親、あるいは救いの手を待ち続けることしかできない。
子どもだけではできないことがあまりにも多い。
それが、大人と子どもの、決定的な違い。

「寂しい」「遊びたい」そう考えたのは母親だけだったろうか。
3歳の長女と1歳の長男は寂しくなかっただろうか。
外で元気に遊びたいとは思わなかったろうか。
寂しい、遊びたい、お腹がすいた、喉が渇いた、苦しい、助けて、そう思いながら死んでいったであろう、その短い一生は、何だったのだろうか。


ちょっと話は飛ぶけど、こういった事件のニュースを見聞きするたびにいつも思うのは
「世の中って性善説で動いているんだな」ということ。

「普通の人間ならば」するはずがないのに、こんなひどいことをした、その心情は、心の闇は……
と、あくまで加害者の心情を探索して「普通じゃなくした原因」をさぐろうとする。

普通の人間が、一番怖いんだよ。
しきりに「心の闇」って騒いでるTVリポーターさん、あなたにも闇の部分があるでしょ。
でもあなたは普通の人間でしょ。それが行動に出るか出ないか、そういうことだよ。


話を戻して3.に行く。
自分の話になるけど、かつていわれのない嫌がらせをしてきた人がいた。仮にAさんとする。
私のこともAさんのことも、両方知っている人に
「なんでAさんはこんなことするんだろうね? 私のこと嫌いなら、離れればいいのに」と相談したところ
「Aさんは寂しいんだよ」という返事で、その時も私は違和感を覚えたのだった。

「寂しい」って伝家の宝刀?
抜けばなんでも許されるの?

シングルマザーの寂しさを全部わかっているかといえば、もちろんそんなことはない。
私は友人にも、連れ合いにも(離婚はしたけれどその後は)恵まれたと思っているし
そんな人間が寂しさを語るな、と言われるかもしれない。

でも、極端なことを言えば、それこそ誰でも一人で死んでいくわけで、
そこに寂しさを覚えたから……という理由があれば、何しても良いのか?

ある日突然白馬の王子様が現れて、受身のまま連れ合いになったわけじゃない。
自分の価値観をはっきりさせる、とか、価値観の合う人を見つけるアンテナをちゃんと張るとか
相手の話を聞くとか、そんなことだって立派に連れ合いを見つける「努力」で
そういう努力はちゃんとしたと自負している。


環境が整っていないせい、というけれど、その環境の中での努力をしたのか?


「カウンセラーがいれば」というけれど、母親はカウンセラーを捜したのか?
でーんと座って待っているだけじゃ、カウンセラーはやってこない。
まして周囲には「子どもは実家に預けた」と嘘をついていたのだから。

自分の寂しさを「全部」わかってくれる人なんていない。
だって自分じゃないもん。
自分と全く同じ生育歴や環境の人なんていないもん。

だったら少しは、自分の寂しさを自分で埋める努力をしないと。

「寂しい、寂しい」とわめいているだけじゃ、何の言い訳にもならない。

| 脳内無法地帯 | 19:31 | comments(2) | trackbacks(0)
任せる=信頼している、か? (2010.07.05)
少し前に聞いた、ある男性の言葉。
家事を一切しないし過去にしたこともない、という理由について
「妻を信頼しているから、妻に任せてある」と。

この言葉に激しく違和感を覚えた。

上司が、部下に仕事を任せる。
それはその部下を信頼しているからではあろうが、
上司は過去にその仕事を経験していて、コツのようなものを知っているから
部下がその仕事でトラブルを起こしたり、行き詰まったりしたときに
すぐに手をさしのべることができる。

さらに言えば、この場合でも上司は部下に「任せっきり」であってはいけない。
信頼して任せているという姿勢を崩すことなく
部下の仕事ぶりをチェックし、何でつまずいているのかを知らなければいけない。
つまずいた部下が助けを求めてきたときに
「何をやってるんだ! オレならそんなミスはしない」などと
怒るだけではダメ上司である。

つまり、上司が部下に仕事を「任せる」ことは
「上司が経験のあること」を
「部下のやり方でやっているのを見守って」
「助けが必要と判断したら助ける」
ということなのである。

最初の男性の場合はどうか。

家事をしたこともない、と公言しているのだから、「経験があること」とはいえない。
「妻のやり方でやっている」だろうが、「見守っている」ともいえない。
「助けが必要」であっても、また妻が助けを求めても、助けられない。経験がないのだから。

要するに、任せっきりのダメ上司と一緒である。
これで「信頼しているから」と言われても、信じられようはずがない。

異論があるかもしれないが、私は家事も仕事も一緒だと考えている。
なぜなら家族には家族のルールがあり、家族として運営していく必要のある「小さな社会」であるから。
上の文章の「家族」を「会社」に置き換えると、
「会社には会社のルールがあり、会社として運営していく必要がある『小さな社会』」となる。
ここに全く矛盾はない。

「会社」では使われる身でも、「家族」では共同運営者となる。
「会社」において、共同運営者が相方の仕事を一切知らない、そんなことがあるだろうか。

信頼している「つもり」で任せっきりにしておいたら、
いつのまにか会社を乗っ取られていた、そんな話はいくらでもある。

「信頼しているから任せる」という言葉は、聞こえがいいけれども
本当に「任せる」とはどういうことなのか、わかっていなければ
それはただの責任放棄、無責任なのである。

| 脳内無法地帯 | 17:08 | comments(0) | trackbacks(0)
エネルギー源 (2010.06.25)
およそ1か月半ぶりの更新。
さすがにここまで間隔があくのは珍しい。

理由を考えてみると、まずはやはり仕事が忙しかったこと。
3月から9月まで続く長期戦のものと、短期決戦のものとが重なると
互いに邪魔をしたり、頭が上手く切り換えられなかったりする。

もう一つは引っ越し準備。
1か月半後に引っ越しを控え、各種手続きだの、新たに購入するものの下調べだの、そういう雑事が俄然増えてきた。

あとは体調不良。ま、今に始まったことじゃないけどな。

さらには気負い。
結局1時間ぐらいかけて書いていたりするので、時間的・気力的にキビシイときはキビシイのだ。
ブログは「日記」なんだから気楽に書けばいいじゃないかといわれそうだけど、なかなかそうもいかない。
ブログというものに対する構え方の違いなんだろう。

こうして考えていて、意外にも大きな理由となったのが「エネルギー源である『怒り』を覚えることが少なかった」ということである。

怒りを感じることはあっても、時事ニュース的なものだったり(時事的なものはすぐ古びるので、なるべく書かないようにしている)、職業上の秘密でここには書けないことだったり、というものは当然書くエネルギーにはならない。
しかし、そうでないことがあると猛烈な勢いで書いていたりする。

考えてみると、「感動した」ことを「誰かに伝えたい」と思うのは
「感動した」=「心が激しく動いた」ことをエネルギー源としているからであって、
「心が激しく動いた」という意味では「怒り」も同じなのかもしれない。
あとはどういった形の「心の動き」に反応しやすいか、ということであって
私は「怒り」に反応しやすいのだろう。


超有名ブログ「くるねこ」で、「怒りの臓器」が肝臓とあった。
酒といい、怒りといい、私の肝臓は日々大変だなあ。
休肝日には怒らないように……なんて、無理か。
| 脳内無法地帯 | 16:29 | comments(0) | trackbacks(0)
なんかいいぞ、私 (2010.01.08)
新年早々、また更新間隔があいてすみません。もはや常態化しているという気も。

そんな2010年の始まりに、景気の良い(かもしれない)話。

「10年メーカー」

「絵日記でもかいてみようかMAIDO」で紹介されていたので、早速やってみました。

本郷玖美の10年

ペントハウスの住み心地が気になる


いえーい!

5年間強運が続き、その後5年間続けて受賞、いいじゃないすか。
年収だってアップ!






体重が気になりますが。(あり得ない数字ではないところが余計に怖い)
| 脳内無法地帯 | 15:41 | comments(0) | trackbacks(0)