ビジネスブログ100選 人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 編集・ライター・書店員へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
いつも応援ありがとうございます
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Recent Trackback
クリック募金
※クリックした方の負担はありません
Mail
メールフォーム
Mobile
qrcode
Links
Profile
Admin l RSS1.0 l Atom0.3 l

物書き玖美のありゃりゃな生活

もの書き・編集者・校正者の、本と言葉と日常。ペンネームは亡き祖母の名前。

表現という病 (2009.06.05)
「なんで書くことに戻ってきたの?」

つい先日、大学の同級生で某文芸誌の編集長をしている人と飲んだ(実際に飲んだのは私だけで、彼はずっとお茶だった)。
彼に訊かれたのが上記の台詞。

「病気だからじゃない?」とは、私の返答。

正直に言って「なんで?」なんて考えていなかった。
時間的問題や体調など、理由は様々あれど、書けない期間は書けない。
書けるようになったから書く。
そこになんのハードルも感じなかった。書いたものの質はまた別の話として。

書いている仲間に、元シンガーさんがいる。
病気でステージに立てなくなって、歌をやめた。
「だから書く」
その言葉は、私にはとてもスムーズに入ってきたのだが、
「で、なんで書く方に?」と、上記の同級生と同じような疑問を抱く人もいた。

歌うことは表現すること。
その道をふさがれたときに、新たな表現の道を求めるのはごくごく自然のようなことに、私には思われた。

表現というのは病気なんだと思う。
その病にとりつかれた人は、表現し続けていなければ死んでしまうかもしれない。
そういう人は確かにいる。
| 創作 | 15:08 | comments(2) | trackbacks(0)
latitude (2007.04.28)
先日、とあるご縁で、電子書籍作家の養成講座に行った。
電子書籍の概要やら市場規模やら、興味深い話が聞けたのだが、その後の質問の時間。
質問者「企画としてペットなんかはどうでしょうか? うちの子世界で一番かわいいから、きっと売れると思うんです
……
なんですと?
さすがにこれには講師の方も参ったらしく、
「みなさんそうおっしゃいますからね」と苦笑。
質問者は「そうでしょうか」と不満げだった。

「相手は○○と考えるかもしれないし△△と考えるかもしれない」というようなことを想像できない人がいる。

私の大学時代の後輩で、好きな子、気になっている子と話をするときに必ず「暴露話しよう」と言う男子がいた。
暴露話とは、大ざっぱに言えば恋愛経験を「語る」こと。
しかし、さして相手がこちらに興味を持っていなかった場合、その相手の恋愛経験を聞いて面白いと思うだろうか?
と、いうようなことを私はたとえを使ってその男子に話した。
私「たとえばさー、女子の95%がパスタ好きというアンケート結果があったとしても、自分の好きな相手はひょっとしたらパスタ嫌いかも、と思わない? そしたら日本一パスタの美味しい店を知っていたとしても、連れて行けないでしょ」
男子「いや、でも美味しい店なんだから美味しいと思うはずじゃないですか」
……
どうしましょうこいつ?
とりあえず、私を日本一佃煮の美味しい店とやらに連れて行ったら殴る。

もう一例。
これは会社勤めのとき。
隣の部署にアルバイトさんが来た。
アルバイトさんの最初の出社日、たまたま何かの打ち上げで、私の部署と隣の部署の合同飲み会が計画されていた。
アルバイトさんにも声をかけてみよう、という流れになったときに、私の部署の後輩が決然とこう言い放った。
「やめましょうよ、行かなきゃいけないんだと無理したら可哀想ですよ」
……
いや、無理をするかどうかはその人によるのでは。
いきなり当日で申し訳ないんだけど、とはもちろん言うし。
ひょっとしたらノリノリな人かもしれないじゃない? 誘わなかったらそれもわからないでしょ。
と、各方面からの反論にあい、後輩は引き下がった。しかし「みんな思いやりが足りないんだから……」と小さく呟いたのを私は聞き逃さなかった。


同じことを話しても、同じ態度をとっても、傷つく人もいれば面白いと思う人もいるだろう。それは仕方のないこと。
それならば、相手の心理の幅をできるだけ広く想像すること、これが発信側にできる目いっぱいのことではないか。

すべての人に愛される文章は存在しない。全員に受ける本も存在しない。
しかし想像しうる心理の幅が狭ければ、その人にとっての「全員」はとても狭いものになり、全員に受けるものはたやすくできてしまう。
最初に書いた、うちの子一番かわいいと言った人にとっては、世界はその人のペットを一番かわいいと思う人だけで構成されている。
そんな、均質にもほどがあるようなことはありえるだろうか?

○○と思う人のみ賛同してくれればいい、という考えも存在していいとは思う。
が、それはあくまで「○○と思う人」が一部分であるとの認識ができてこその話。

世界はあんたに把握できるほど狭くはないんだよ。
そういいたくなるような人が、結構身近に、たくさん存在する。

| 創作 | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0)
突然ですがアンケート! (2007.02.15)
創作、特に小説をお書きになる方へ。

登場人物の名前ってどのように決めていますか?

実は私、適当なんです。
と言ったら怒られそうですが、本当です。
頭の中に浮かんだ音、またはそれに似た単語をつなぎ合わせて、
「それっぽい」ものに仕立て上げるのです。

そのことを話したときに「えー!?」という反応が多かったのです。
「すっごい普通の名前にするか、でなければ小説の中の役割を象徴した名前にするか、どっちかでしょ」と断言されたこともあります。

皆様はいかがでしょうか?

お答えいただける方はコメント、または左の「Contact」からメールをお願いします!
| 創作 | 17:23 | comments(2) | trackbacks(0)
作務衣自体はおなかが冷えなくて良さそうだと思っている (2006.12.30)
最近、創作(小説)の方面で行き詰まっている。
テーマを与えられて書くほうが得意になってきている。
「頭が固くなってきてんのかなあ」とぼやいたら、連れの返事はこうだった。
「実は常識人だったってことじゃないの?」

……そうか。
確かに本屋の棚から画集を引っ張り出して積み上げたり、
校庭のど真ん中でスキップしながら「ほっほほーい」と叫んだりはできないよな。

私は「いかにも」というのがどうも苦手だ。「いかにもいい人、という雰囲気」とか、「いかにも女らしい」とか。
「いかにも個性的」というのはその際たるもの。
「いかにも」という言葉がつけられる時点ですでに個性的じゃないんだよ、と言いたい。
例えば作務衣を着て、背中まで伸ばした髪を後ろで束ね、陶芸に精を出しているおじさん。もちろん土にはこだわりがあるのでわざわざ遠くまで探しに行く。「自分の作品をわかってくれる人だけわかってくれればいい」ので、卸売りに出したりはしない。熱烈なファンである喫茶店のご主人が主に買っていく。
ほら、立派な「いかにも個性的」の一丁上がり。

……などと思っていたら、ほとんど同じようなことが書いてあったので驚いた。
熱血ポンちゃん膝栗毛
熱血ポンちゃん膝栗毛
山田 詠美
この本の「往生際ユビハビスト」という章から引用。
あ、唐突ですけど、作務衣って往生際悪いと思いません? 前に、作務衣って、なーんか苦手だなーと呟いた私に、奥泉光が、おおいに賛同した。
「ぼくも苦手なんだよ、作務衣っていうか、作務衣着てる人。あの人たちの価値観って共通したとこあると思わないか?」
「確固たる哲学あり過ぎみたいな?」
「だいたい蕎麦打ちに精進してたりすんだよなー」
「陶芸に身を捧げてたりもするよねー」
「オールバックにした長髪をひとつに結んでることも多々あるよ」
「独自の美意識を持っていると自負してるんだけどさー」
「皆、そうだから、全然独自じゃないんだよねー」
「ねー」

……
同志よ!
元々この「熱血ポンちゃんシリーズ」は全部読んでいる。
もっと若いころは「そう! そのとおり!」「私もそう思う!」といちいちうなずきながら一気に読んでいた。
さすがに最近、たとえ共感という代物であっても一冊分の感情のゆれを一度に感じるのは疲れるので、細切れで読んでいたのだが、それにしてもここまで意見の一致を見たことはなかった。
大げさではなく、「生きてて良かった」と思える瞬間だった。

独自の価値観を持っていると思われたい人に、本当の「独自性」はない。
衆目を意識しての独自性、リサーチ済みの個性は、他人の目を気にして皆が着ている流行の服を着ることとなんら変わりない。
極端なことを言えば、おそらく世の中に自分ひとりしか存在しなくても、いいアイデアが浮かんだら「ほっほほーい」と叫んでスキップする。それが宮沢賢治なのだ。

私は梶井基次郎のように、積み上げた本の上に檸檬を乗せて「あれが爆弾だったらどんなに愉快だろう」と妄想することはおそらくできない。
「こんなに積み上げちゃって、書店の人が片付けるの大変だよなー。檸檬の汁が表紙に付いちゃったらもう売れないだろうしなー。檸檬は忘れ物ですって届けたほうがいいのかなー」と考えるぐらいが関の山だ。
根っからの凡人。
だがまあ、自覚のある分だけたちの悪くない凡人だと考えることにしよう。
| 創作 | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0)
ナチュラルなライフが癒しと説く人よ我はビールを半分残す (2006.11.30)
お粗末さま。


以下五首はちゃんと山崎方代の歌集より。

生れは甲州鶯宿峠に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ

こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた

ある朝の出来事でしたこおろぎがわが欠け茶碗とびこえゆけり

とうきょうの夜更の街の電柱に体あずけてあきらめている

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております



こんなもんじゃ 山崎方代歌集
こんなもんじゃ 山崎方代歌集
山崎 方代


最後の「一度だけ……」の歌を教科書に掲載するにあたって、著作権継承者を探し回ったことがある。
なにせ妻も子もいない。問い合わせても「身寄りがいなかったので……」と言われる。
結局そのまま掲載した。

本の帯にはこう書いてある。
○○がなくても、寂しくない。
○○も○○も、欲しくない。
○がなくても、嘆かない。

方代さんふうに生きてみたいと思いませんか。

○に入る言葉は帯の裏に書いてあって、順に「妻子、地位、名誉、金」だそうである。

……生きてみたいとは思わないな。少なくとも私は。
子どももかわいいし、できることなら地位も名誉も欲しいし、お金はかなり欲しい。

歌を見る限りでは、方代さんもそんなに達観してはいなかったのではないかと感じる。
手に入れたいものはあって、それも手に入らずに失うことばかりを経験してきたために
最上級の孤独が歌となって噴出したのではないか、と。

創作についての「作者のこのときのこういった境遇、世相がこの作品にあらわれている」
といった、国語の授業によくあるような解説が嫌いである。
同時代に同じような境遇を抱えて生きていたたくさんの人間の中で、なぜ作者だけがその作品を作ることができたのか、それは背景を知るだけでは解き明かされないものだと思う。
環境がまったく反映されていないわけではないだろうが、時代やら作者の生い立ちやら
そんなものがまったくわからなくても残る作品は残る。
作者の中のブラックボックスを通ってすべては変換され、作品が生まれる。
読者の中のブラックボックスを通って作品は変換され、その読者だけの受け止め方がなされる。
そういう一対一の真剣勝負が、作品を作りまた読む楽しみなのだ。

山崎方代についても、私のもっている知識をここで披露することは避ける。
「ああ、それでなのね」と納得して終わりにして欲しくない。
ましてや「こんなふうに生きたいなあ」「癒されるなあ」という一言で片付けて欲しくない。

最後にまた二首引用。

独身を処世の方針に初めからきめて歩いて来たわけではないよ

このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている
| 創作 | 15:09 | comments(0) | trackbacks(0)
砂金採り (2006.11.16)
シェアブログcreateに投稿

経験、特に恋愛経験を思い出にする作業は、砂金採りに似ている。

川底の泥をさらって、根気よくふるいにかける。
長い長い時間が経った後に、きらきら光るものだけが残る。いや、残す。
泥は流れてどこかに静かに溜まる。

「思い出は美しい」といわれるのは、こういう作業があってのことなのかもしれない。

そして、思い出を文章にする作業は、砂金から指環を作るのに似ている。
形を変え、かつて泥と一緒に沈んでいたことがわからないほどになっても、
素材自体は変わらない。
たとえフィクションという形の文章であっても。

砂金は人の目に触れないが、指環はあえて他人にさらす。
「きれい」と言ってもらって、思い出はあり続けることを許される。
手を傷つけ血を流して得た「内面のノンフィクション」(by山田詠美)が報われる瞬間。

私はいまだに砂金採りを続けている。





 キラキラヒカルサイフヲダシテキ
 ラキラヒカルサカナヲカツタキラ
 キラヒカルオンナモカツタキラキ
 ラヒカルサカナヲカツテキラキラ
 ヒカルオナベニイレテキラキラヒ
 カルオンナガモツテキラキラヒカ
 ルオナベノサカナキラキラヒカル
 オツリノオカネキラキラヒカルオ
 ンナトフタリキラキラヒカルサカ
 ナヲモツテキラキラヒカルオカネ
 ヲモツテキラキラヒカルヨミチヲ
 カエルキラキラヒカルホシゾラダ
 ツタキラキラヒカルナミダヲダシ
 テキラキラヒカルオンナガナイタ


(入沢康夫「キラキラヒカル」)
| 創作 | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0)